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将軍秀忠の庶子・保科正之
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保科正之は二代目将軍・徳川秀忠の庶子にあたります。秀忠が実子と認められず、信濃の保科正光の養子として育ちました。やがて三代将軍・家光に実弟として認められ、会津を領地として与えられます。
やがて、保科正之の子・正容が三代目を継ぐと、幕府から松平姓と葵の紋を与えられ、正式に徳川親藩に会津は組み入れられる事になります。
こうして、会津の松平藩政は九代続きました。
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| 年代(年号) |
事 柄
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1643
(寛永20年) |
加藤氏が四十万石の封士を召し上げられると、保科正之が最上(山形)から転封となり、会津四郡23万石を与えられるとともに南山五千五百石余の幕府領を預かることとなりました。 |
1651
(慶安四年) |
将軍家光の臨終にあたり、その子家綱が幼かったので正之を後見としました。 |
1668
(寛文八年) |
正之は家訓十五条を定め、子孫への遺訓としました。この後、会津藩の政治の大綱になりました。 |
1696
(元禄九年) |
三代正容は十二月九日将軍の命令により、松平の姓と葵の紋を用いることになりました。 |
1787
(天明七年) |
二月に家老田中玄宰が藩政改革についての建議書を差し出しました。五代容頌は家臣に計ってこれを許したので、藩政の一大改革が行われるようになりました。 |
1808
(文化五年) |
この年幕府の命令によって兵を出し、蝦夷地を守りました。八月に玄宰がなくなり、遺言によって小田山の頂上に葬りました。 |
| 以降、幕末へ続きます |
■2代将軍秀忠の庶子・保科正之
加藤嘉明が重臣、堀主水とのいさかいが原因で会津を去ると、保科正之が出羽(山形県)から入部しました。正之は2代将軍秀忠の子として生まれましたが、秀忠は正室の怒りをおそれて、実子として認めなかったため、武田信玄の娘の見性院のもとで養育され、7歳の時に信濃国(長野県)の城主保科正之の養嗣子となりました。
父秀忠の生前は父子としての対面はありませんでしたが、3代将軍家光は正之を実弟として認め、寛永13年(1636)には出羽山形20万石、寛永20年(1643)には、会津23万石と高遠3万石と比べて破格の待遇をうけることとなりました。
■支配構造の確立と藩士の心構え
正之は会津に入ると領内を巡視し、民政18条や郷村収納の法をはじめ数々の法令を定めて領国内の支配構造を確立しました。また家訓十五条を定めて徳川本家に対する忠誠や藩士の心構えを明らかにし、会津松平藩政の精神的な柱としました。さらに殉死を禁じて戦国の気風を断ち切り、神社を再興して仏事を抑え、会津風土記を編纂して領内の由来を明らかにするなど、9代続く会津松平藩の基礎を築きあげました。
■松平姓と朱子学
3代将軍家光が亡くなると、その遺言によって正之は4代将軍家綱の後見となり、11歳の将軍の養育に努めました。とりわけ、戦国の気風を伝える徳川3代の武断政治を改め、朱子学を中心とする文治政治への転換を図り、徳川幕府三百年の基礎を確立した功績は大きなものがありました。
正之が寛文12年(1672)62歳で亡くなると、その子正経、ついで正容が後を継ぎ、この正容の代に松平の姓と葵の紋を幕府から与えられ徳川親藩に組み込まれることとなりました。正之は謹直な名君でしたが、その朱子学的な保守は会津藩の精神風土となり、ともすれば時流に遅れがちな気風を残すことにもなりました。
■家老・田中玄宰の藩政改革のはじまり
田中玄宰は五代藩主容頌の家老で、藩政改革を行った事で有名です。
五代藩主容頌は寛延3年(1750)7歳で藩主となり、9代の藩主中最も長い55年を治めることとなりますが、藩財政は40万両を越える借金となって容頌を苦しめました。
このため容頌は、俊才 田中玄宰(たなか はるなか)を家老に登用し、藩政の一大改革に着手しました。
玄宰は藩政の基礎が農・工・商の振興にあり、それをなし遂げるためには士=家臣団の教育と人材登用を断行しなければならないと決意しました。このため、熊本の古屋昔陽を招いて藩祖正之が排斥した古学派を導入し、藩政に役立つ家臣団の育成を図りましたが、正之以来の藩風を変えようとする玄宰の試みは藩主容頌をはじめ藩内の大きな抵抗にあい、天明4年(1784)には一時、家老を辞したほどでした。しかしながら、財政危機に対応できる人物が他に見あたるはずもなく、玄宰は再び家老に復帰して藩政改革を進めることになりました。
■家老・田中玄宰の藩政改革(藩校会津日新館)
まず、藩士の学風を切り替えるために藩士の就学を義務づけ、産業の振興に役立つ知識や技術の習得を含んだ文武一体の教育をはじめました。この学制改革は、文化元年(1804)藩校会津日新館の完成となって結実し、実学尊重の気風が会津に根付くことになりました。
■家老・田中玄宰の藩政改革(産業の振興)
ついで、薬用人参の栽培、漆器や酒造、陶磁器、そして絵ろうそくの改良など、産業の振興を進めました。また、城下の豪商林光正とともに人材の育成に努めました。
画家の遠藤遠村は農家に生まれながら画才を認められ、江戸、京都に写生画を学んで会津へ帰り、漆器や陶磁器、絵ろうそくなどの図案の改良に大きく貢献したのが、その一例です。
■家老・田中玄宰の藩政改革の終わり
こうして藩政改革を進めた玄宰でしたが、藩主容頌の後を継いだ容住、容衆がいずれも若死にしたこともあり、玄宰の死後その実学優先の思想は年々保守的なものとなり藩政も再び疲弊することになります。玄宰の墓は遺言どおり、城と日新館の見える小田山山頂にあります。
■会津の名人
会津藩が全国に誇る名人が二人伝えられています。
一人が画人加藤遠澤、一人が刀工三善長道です。会津では昔から「娘を嫁がせるなら遠澤と長道のある家に」と伝えられ、その貴重さがよく分かります。
遠澤は寛永20年(1643)に生まれ、茶坊主として会津藩に仕えましたが、19歳の時に江戸の狩野探幽の門に入って画技をみがきました。やがて久隅守景、鶴沢探山、桃田柳栄とともに探幽門下の四天王として名を高め、会津藩のお抱え絵師として活躍しました。その性格は常人と異なり、武士でありながら刀を好まず、妻妾もおかず、飄然として一生を過ごし、享保15年(1730)に88歳で没しました。
師の探幽は遠澤を大変愛し、「百歳の後は汝必ずや我が許に来るべし」と言いましたが、その言葉どおり遠澤は江戸の池上本門寺にある探幽の墓の傍らに葬られています。
長道は刀工会津三善家の3代、加藤嘉明に従って伊予国松山(愛媛県)から会津に入った祖父長国、父政長の後を継ぎ、江戸前期における屈指の名工として名高い人です。文政年間(19世紀はじめ)に首切り浅右衛門として知られた山田吉睦は、古今の刀工から最上の切れ味の12人を選びましたが、長道はその一人にあげられています。このことからも抜群の技量がわかります。
遠澤と長道、江戸時代を代表する会津の名人ですが、いずれも江戸において高く評価されており、当時の会津文化水準をよく示しています。 |
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