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会津藩士日向新助の娘。海老名季昌に嫁ぎ、夫が京都勤めや渡欧での留守中はりんが一家を支えました。戊辰戦争後は斗南へ移住し、その後東京へ移りキリスト教の洗礼を受けました。夫はキリスト教に猛反対でしたが信仰を捨てることなく貫きました。友人から幼稚園経営を依頼されたことがきっかけで幼児教育に携わるようになり私立若松幼稚園と私立若松女学校を創立しました。(写真・園児との集合写真:会津若松市立会津図書館蔵)
 


会津藩家老の娘です。同志社女学院を卒業後、22歳の時ハンセン病と診断され隔離入院することとなりました。医師や看護師も病を恐れる中、母国を離れてまで患者のために尽くす神父の姿や、患者同士支え合い懸命に生き抜こうとする姿に心を動かされます。1年後ハンセン病は誤診だったと発覚しますが、病院にとどまる決意をします。看護学校で学び、看護師として92歳で亡くなるまで忠実に患者の為に尽くしました。功績が認められヨハネ23世(ローマ教皇)より聖十字勲章を、赤十字国際委員会よりナイチンゲール記章を授かりました。
 


大変裕福な家に生まれ、何不自由なく暮らしていましたが、9歳で父が急死し、家までも焼けてしまうという災難に見舞われます。14歳の時会津藩の御典医の家に預けられ医学の基礎を学びました。戊辰戦争の時は医学の経験が役に立ち、敵味方なく負傷者の看護にあたりました。また子供たちの学校を作り身寄りのない子や貧しい子を保護するなど、全国に活動を広げ、生涯を社会福祉に捧げました。(写真・会津若松市会津図書館蔵)
 


会津婦人会を創立し、女性の教養と福祉に貢献した人物です。子供の世話をするために雇われた10代の子女が乳幼児を背負ったまま学べる「子守学校」を設立しました。瓜生岩子を尊敬し地道に活動を続け30年後託児所を創立しました。全国的な活動はしませんでしたが、会津の地に腰を据え強い忍耐と控えめな態度で生涯を教養と福祉に捧げました。(写真・社会福祉法人 会津婦人会保育園・旧会津婦人会隣保館)
 

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本名は生まれた年に因み甲子。ペンネームが若松賤子です。戊辰戦争後、織物商山城屋の手代大川甚兵衛の養女となり、フェリス女学院で学びます。同校の第一期生として卒業し、教師として働きます。「女学雑誌」の主宰者で明治女学校の創立者である巌本善治と結婚します。バーネットが書いた「小公子」を翻訳し洗練された言文一致体であると絶賛されました。(写真、表紙・小公子:会津若松市会津図書館蔵)
 

山本覚馬と新島八重の母。鉄砲に興味があった八重の良き理解者となり、砲術師の家庭を支える妻でしたが、夫の権八は戊辰戦争で戦死してしまいした。戦後は、鳥羽伏見の戦いで行方不明になった覚馬が京都にいることがわかり、八重らと移住しました。明治維新後は、京都府知事の顧問となった覚馬や、同志社を設立した新島襄・八重夫妻を見守り、明治29年、老病で亡くなりました。享年87歳。
 

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会津藩士の娘。3歳の時に亡くなった母に代わり、兄妹の面倒をみる優しい女性だったと言われています。近くに住む山本八重や高木時尾と裁縫を学びました。その後戊辰戦争が始まるも、城内へ逃げ遅れたため、郊外に避難しました。戦後は斗南へ移住し、間もなく函館に渡り旧薩摩藩士内藤兼備(かねとも)と結婚、明治20年には八重と札幌で再会を果たしました。昭和19年94歳で亡くなりました。(写真、表紙・萬年青:会津若松市立会津図書館蔵)
 

山本八重らとともに、祖母のもとで裁縫を習いました。のちに照姫の秘書係りをつとめ、戊辰戦争では籠城戦に加わり、男装する八重の髪を切ったと言われています。戦後は斗南(青森県)に移住し、藤田五郎(元新選組三番組長・斉藤一)と結婚し、三男をもうけて東京で暮らしました。その後、会津戦争戦死者の埋葬に尽くしました。(写真:阿弥陀寺)
 

籠城戦の最中、有賀千代子と山本八重が、病室へおにぎりを運んでいると、一発の砲弾が破裂し砂ぼこりで眼が開けられない、息も出来ない状態になりました。やっと目が開けられるようになり目の前の千代子さんの顔を見ると土人形の怪物そっくりで大爆笑。そう言っている八重さんの顔も土人形の怪物のようでまたまた爆笑。おにぎりまでもが真っ黒で、これにはがっかりしたそうです。気丈な会津の女性らしいエピソードです。
 

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幼名は咲子といいます。戊辰戦争に敗れ斗南(青森県)に移住しましたが、12歳の時、岩倉使節団に同行する女子留学生の一員としてアメリカに渡りました。その時、母から捨てたつもりで待つという意味を込められ、捨松と改名しました。帰国後、会津と薩摩との結婚は猛反対されましたが、旧薩摩藩士・大山巌と結婚しました。美しい身のこなしで鹿鳴館の貴婦人とうたわれ、西洋式の礼儀作法を教え、催したバザーの収益金で看護婦学校を設立、福祉や教育にも貢献しました。(写真・近代会津百年史:会津若松市立会津図書館蔵/ドレス:会津武家屋敷蔵)
 

会津藩士の妻です。会津戦争の時、子どもが帰って来ないのを心配し、飯盛山に探しに行くと、白虎隊士の飯沼貞吉が倒れていました。西軍から逃げながら、山中の不動堂で介抱したと言われています。会津落城後、貞吉は藩に戻りましたが、ハツのその後の行方は不明とされています。
 

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平田紋十郎の長女として江戸和田倉門外の会津藩邸に生まれました。中野竹子と共に赤松大輔の養女となり姉妹のように育ち、一緒に薙刀や書道の修行をしました。涙橋の戦闘では竹子と共に戦い、竹子が戦死したあとは副隊長として婦女隊を指揮しました。
 

たかは本来、ムツという名前でした。明治44年から松平恒雄子爵の家に仕えると、天皇の名前が睦仁であることから、「ムツ」と呼ぶことは畏れ多いとして、名を「たか」と改めました。その後30年間、松平家に仕え、秩父宮妃となられた勢津子様の幼少から輿入れまでお世話しました。
 


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明治2年、会津人を中心とした農業移民団としてアメリカへ渡ったひとりです。
茶・生糸などの生産をめざし『若松コロニー』をスタートしました。気候の違いもあり、コロニーが挫折してしまった後もその地に残ったおけいですが、19歳で病死しました。墓所はカリフォルニア州ゴールドヒルにあり、同じ墓が市内背あぶり山に昭和33年、建立されました。
 






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野口英世の初恋の女性。
会津藩の医家の娘で、父の死後、医師となって山内家を再興することを目指していました。受験のため上京したヨネは英世から結婚の申し込みを受けましたが断りました。その後、会津で医者となったヨネは、4人の子供を育てながら医師として活躍しました。
 






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蒲生忠郷の頃、若松城下には遊郭があり、その中でも太夫は容貌や性格がよく、和歌や茶の湯などにも通じ、名妓と騒がれました。滝沢に花見の帰り、この太夫に思いを募らせる天狗又兵衛に殺されてしまい、哀れんだ町の人は太夫を飯盛山の麓に埋めて供養し、1本の桜を植えました。以来、その桜は太夫桜と呼ばれるようになり、現在は2代目といわれています。春には見事な花を咲かせ、その壮観さは麓からも眺めることができるほどです。





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家老西郷頼母の妻です。8月23日、戦火が会津に迫る中、長男吉十郎のみを城中に送った後、戦の足手まといにならぬよう、自邸にて祖母・姑・娘ら20人と共に自刃しました。市内門田町北青木の善龍寺にある「二十一人之墓」に殉難した一族と一緒に眠っており、年に1回墓前祭が営まれています。また、境内には戊辰戦争で自刃した婦女子233人を慰霊する「なよたけの碑」もあります。
『なよ竹』は可弱い女性の心を表し、『たわまぬ節』はその中でも決して曲がったりしない強い精神が存在することを表している。
戊辰戦争時、自刃の際の辞世の句。





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松平容保の六男で外交官の松平恒雄の長女として、ロンドンで生まれました。1928年(昭和3年)9月28日昭和天皇の弟宮秩父宮雍仁(やすひと)親王殿下との婚儀が行われました。勢津子妃殿下が皇室に嫁がれることは、戊辰戦争によって「朝敵」の汚名を受けた苦しい時代を耐えてきた会津の人々の心をよみがえらせました。御薬園には秩父宮妃殿下がかつて宿泊された建物が移築されており、「重陽閣」として公開されています。
夫婦揃って共に健康に恵まれいっそう繁栄いたしますように。この日本が生まれ変わり、共に栄えますようにお祈りいたします。父松平恒雄の古希と母信子の還暦をお祝いして詠んだ歌。





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飯野藩主保科正丕(まさもと)の三女に生まれ、会津藩主松平容敬(かたたか)の養女となりました。書道・礼法・香道に通じ、特に和歌や琴を好む聡明な女性でした。一度嫁いだものの離縁して江戸の会津藩邸に戻りました。会津籠城戦では女性500人を指揮し、負傷者の救護や炊き出し、撃ち込まれた砲弾の処理を自ら行い、精神的支柱として全女性をまとめていました。
会津藩の戦争責任者として切腹する萱野権兵衛に詠んだ歌。





会津藩8代藩主 松平容敬(かたたか)の五女として生まれました。容敬に男子がなかったため、美濃高須藩から松平義建(よしたつ)の六男容保を迎え14歳で容保の正室となりましたが、1861年(文久元年)10月に19歳で死去しました。  





戊辰戦争下、新政府軍が若松城下に迫ったとき、女性だけの部隊、「娘子隊」を結成しました。鶴ヶ城へ向かう途中、新政府軍に遭遇し、竹子は薙刀で戦いましたが敵弾を受けて絶命しました。彼女が奮戦したといわれる市内神指町黒川の柳橋の近くには「中野竹子奮戦之地」として、石碑や石像が建てられており、年に1回慰霊祭が営まれています。
容姿端麗・文武両道・なぎなたの名手として戦った竹子の辞世の句。





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新島八重は、会津藩の砲術師範であった山本権八(ごんぱち)・佐久夫妻の子として生まれました。幼少期から、裁縫よりも家芸の砲術に興味を示す男勝りの性格といわれ、戊辰戦争の際、断髪・男装し、銃撃戦に参加しました。戊辰戦争後の京都で、同志社創立者・新島襄と結婚しました。さらに看護や茶道を通して、女性の社会的立場の向上に貢献しました。時代の波に翻弄されながらも、自分らしくまっすぐに生きた女性です。
勢津子妃殿下のご結婚のお祝いを聞いた時に詠んだ歌。朝敵という汚名返上と、素晴らしきご成婚の喜びを歌った。







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