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国指定名勝松平氏庭園
御薬園は周囲約540メートルの長方形で面積は1.7ヘクタール(約5100坪)あり、北には千古の雪を頂く飯豊の霊峰、東には磐梯の秀峰と背あぶり山・東山の連山がのぞまれ借景のすばらしいい庭園です。

昭和7年10月19日国名勝に指定され、昭和28年10月11日から一般に公開されました。
■御薬園(おやくえん)の始まりと歴史概要。

鶴ヶ清水と朝日神社
 今から、およそ600年前の至徳年間(1384から1386)葦名氏七代直盛が会津の地に初めて東黒川館(後の鶴ヶ城)を築き、領主として会津統治に力を入れるようになりました。このころ館の北の方角に大田谷地という野原があり、鶴が十数羽舞い遊ぶのをみました。

  そこには一軒の農家があり、喜助というものが病気で難儀していましたが、朝日保方という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉で喜助を介抱しやがて、喜助は元の体に戻りました。保方老人はそれを見届けるようにしてこの世を去りました。喜助は疫病から救ってくれた恩人として救い主の保方を霊泉のかたわらに手厚く葬り、祠をたてて朝日神社とし、霊泉の泉を鶴ヶ清水と名づけたということです。

御薬園の始まりと歴史
 永享四年(1432)の頃十代盛久この地は霊地であるとし四角四面に区切り、別荘を建てました。十六代盛氏(天正年間・1573~1591)の頃は葦名氏の全盛期で盛氏は別荘を復興しました。これが御薬園の創始とされています。
 その後時代は伊達、蒲生、上杉、再蒲生。加藤と移り長い戦乱が続いたため、別荘はまったく顧みられませんでしたが、松平氏の藩祖保科正之は霊地の由緒をただして、庭園を整備し、保養所として用いるようになりました。

 現在の庭園は三代正容の元禄九年(1696)小堀遠州の流れをくむ、園匠・目黒浄定と普請奉・行辰野源左衛門の手に成るもので、規模を拡大し借景を取り入れた築泉回遊式の大名庭園に大補修を加えたものです。目黒浄定はこのとき、「御薬園付絵師」という藩の肩書きを与えられていました。

御薬園を整備したのは、小堀遠州の流れをくむ、園匠・目黒浄定。
では小堀遠州とは?

  江戸時代初期の代表的な作庭家です。
 遠州は天正七年(1579)近江(滋賀県)に生まれ、古田織部に師事して秀吉や家康にも仕えました。建築、築城、造園、茶道、華道などに通じ、書(定家流)、和歌、連歌、狂歌、焼物、彫金、書画刀剣などの鑑定などに優れた才能を示したといわれています。特に総合的な空間構成としての作庭に成功した技術者でありました。
 遠州は、明国の造園書「園冶」に学び、借景式の庭園の定型化に総意を傾けたといわれその根本は「綺麗さび」「さっぱり」の均整と統一だったといわれています。

■日本庭園・御薬園

 日本の庭園は、その美しさにおいても構成においても、西洋の庭園とは異なる独特の魅力を持っています。それは自然風景式であり、必ずしも整った方形や円形になっていないという特徴があります。築山をつくり、石を組み、池に水をたたえて芝をはり木を植えて刈り込み、石灯籠をたてて鑑賞し心にゆとりと安らぎをもたらすものです。

 江戸時代に入って諸国の大名が江戸に藩邸を構えるようになるとともに江戸の各地に大庭園が次々と作られていきました。藩邸ばかりでなく、国元の居城、あるいはその近くに大名庭園を営むことが一種の流行になりました。それは後に、大名庭園と名づけられた回遊式の林泉庭園で日本庭園の主流となっていきました。さらに、仏教や茶道とのかかわりや、儒教や中国の流儀などが加わり、次第に庭園の表現が複雑なものになっていきました。

 日本庭園の分類はいろいろあるようですが、御薬園は写景庭園の林泉庭型に入るといわれます。これは、日本庭園にもっとも普通に見られる様式で築山を設け・山・川・海・林・野などの要素を、水流・池・植え込み・芝などにかえて、ひとまとまりの区画の中に表現したもので、更に池の周囲に一定の園路を設けて茶亭などの建物を配し、園路をすすむにつれて庭の変化をたのしむという回遊式の技法を取り入れています。

御薬園は昭和七年に国から指定を受けました。
その理由が次のように述べられています。

  会津藩主松平氏の別荘で薬園のあったところ。
徳川中期の築造であるがその年月は明らかでない(註・後に元禄九年であることが明らかになった)
園の中央に屈折する池があり、中島を置き橋を架け島には楽寿亭が建つ。東南岸に滝を懸け、両側は石敷路となり池辺に石を配す。北に赤松散在し南より東にわたって樅(もみ)・松・杉等の大樹がそびえる所々にキャラボクの点植するをみる。東後方には低い仮山を築き東山の連山を借景としている。大名型庭園の山水庭として優秀なものである。

■薬草園としての御薬園
 寛文10年(1670)2代藩主正経(まさつね)は貧しい農民を疫病から救い、病気の予防や治療などを施したいとの願いから、園内に薬草園を設け、各種の薬草栽培を試みました。
  三代正容の貞享年間(1684~1687)から次第に薬草が整備拡充され、朝鮮人参(オタネニンジン)を試植しこれを広く民間に奨励したことから、御薬園とよばれるようになりました。

 享和三年(1803)には家老の田中玄宰が出雲(島根県)から大量の人参種を買い入れ会津一円に広く作付けをするようになり、やがて藩が直接指導することによって薬園の役割はいっそう充実していきました。その主な内容は、朝鮮人参を中心にして会津に自生する薬草、薬木を積極的に栽培し、各種の薬効の研究にあたったこと、いろいろな薬草が出回ったため偽物も出始めたのでその鑑定を行ったこと、毒草の見分け方の研究を進めたこと、もっとたくさんの薬効をもつ植物の研究にとりくんだことなど、今でいうならば藩の中央薬事試験所のような役割をはたしておりました。


■人参奉行所の運営と仕組み

 天明の飢饉(1782~1783)で会津の農業も大きな打撃を受けました。藩では疲れきった農村の振興にのりだし農民に力をつけなければならないことを悟り、産業の奨励によって藩の財政の立て直しをはかるようになりました。
 養蚕、漆、ろう、紅花などの栽培を奨励して、価値の高い商品作物を生産することに力をいれました。特に朝鮮人参は高価な商品作物であることから藩直営の事業とするために人参奉行所を設け、人参の生産販売を専売制にしました。そして、藩の指導奨励と農民の根強い努力で、会津の朝鮮人参(会津和人参ともいわれる)は天保3年(1832)幕府の許可によって日本ではじめて輸出人参として清国(中華人民共和国)のむけ長崎の港を出港したのです。

 人参奉行による運営の要点は、次の3点にありました。

  1. 村名主によって身元が確認された農民一人について1畝(1アール)あたり600粒の種子を貸し付ける。但し、一人3畝を限度とする。
  2. 買い上げ代金の前貸しをし、集荷、精製を一貫して引き受ける。
  3. 販売経路を確立し良品は海外へ輸出する。

 人参栽培農民は、価格も安定し来年の種子の貸し付けの保証もあり、海外市場も開かれているので大いに生産に励みました。



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