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本丸


会津若松市のシンボル鶴ヶ城。
数多くの戦国大名が治め、幕末の戊辰戦争でも有名なこの城は、明治7年に取り壊されましたが、昭和40年に幕末の姿であった5層の天守閣に復元されました。平成13年には南走長屋と干飯櫓が復元、平成23年には赤瓦葺替修繕工事が完了し、幕末の鶴ヶ城の姿に生まれ変わりました。
天守閣内は博物館として貴重な資料を展示公開しております。また 城の周りに広がる公園は石垣や桜が美しく、市民にも人気の高いスポットとなっています。
南走長屋
南走長屋は、表門(鉄門)から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。現在ある天守閣から表門をつなぐ走長屋とともに表門を守り、帯郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと考えられています。
 
干飯櫓
干飯櫓は若松城内にあった十一の二重櫓の中で一番大きかった櫓です。会津藩の正史である「家世実紀」では「糒櫓」とも書かれており、米を備えると書くその字のとおり、糒(干飯)などの食糧の貯蔵庫として使われていました。
茶室麟閣(りんかく)
千家ゆかりのお茶室「麟閣」
天正19年(1591)千利休は豊臣秀吉の怒りを買い死を命じられました。秀吉の怒りが千家一族に及び利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、時の会津城主「蒲生氏郷」は、利休の子少庵(しょうあん)を会津にかくまい、千家の再興を願いでたのです。この恩義に報い少庵が建てたのがこの「麟閣」と伝えられます。その結果、少庵は許され、京都へ帰り千家を再興することができたのです。
御三階跡
かつて本丸内には数多くの建物がありましたが、その一つに「御三階」と呼ばれる建物がありました。主に会議等に使用されたとされるこの建物は、市内の阿弥陀寺に移築され今も大切に保存されています。
茶器櫓
月見櫓
横矢かがり
本丸石垣の要所には物見櫓が配されていました。主に茶器等が納められていたという茶壺櫓、櫓にかかる月が大変美しく見えたという月見櫓など風流を偲ばせる名もつけられています。櫓跡が残るのみですが、石垣沿いは自由に歩けるので散策もおすすめです。石垣をよく見ると、「横矢がかり」というジグザグになっている部分が見られます。これは敵を側面から攻撃するための工夫となっています。
 
鶴ヶ城本丸の東南隅にある。
明治31年に28歳の土井晩翠は東京音楽学校の求めに応じて「荒城の月」を作曲した。その際、第二高等学校在学中に訪ねた会津若松城址を詩材とし、仙台青葉城でも稿を練ったという。
この詩碑は昭和22年晩翠夫妻出席の元に除幕され、作詞の根拠が地元会津若松でも知られるようになった。
なお、「荒城の月碑」は、鶴ヶ城、青葉城の他、作曲者滝廉太郎の故郷大分県竹田城址の三ヶ所にある。



お城だけでなく、会津地方のいろいろなご案内をしています。



鶴ヶ城喫茶コーナーでは、ボリューム満点のうまいものをご用意しています。



北出丸


大越掛 大越掛
北出丸の堀沿いに進むと敵を迎え撃つための大腰掛けが今も残っています。この付近は堀向いの伏兵郭からも攻撃でき、万一敵が北出丸まで侵入しても四方から攻撃できることから「みなごろし丸」の別名もあります。戊辰戦争では新政府軍が北出丸追手門付近まで押し寄せましたが、これより先へはとうとう攻め入ることができませんでした。
北出丸から望む壕と対岸の石垣 北出丸から望む壕と対岸の石垣
北出丸から望む壕と対岸の石垣深く広い堀に囲まれ堅固な石垣で築かれた濠は外敵から城を守る大切な役割を担っていました。現在では石垣の上に植えられた桜の木があり、春には堀の水にも桜が映り、見事な景観をつくります。
武徳殿 武徳殿
昭和9年武道を愛する市内の篤志家たちの寄付により建てられました。剣道をはじめとする武道奨励のための道場です。
椿坂 椿坂
北出丸から本丸へと通じる城への玄関口。この坂を制するものが城を制すると言われる程、重要な坂でした。この坂を上った所に、観光案内所(管理事務所)があります。

帯郭・西出丸


遊女石 遊女石
椿坂を上ると、太鼓門があった枡形とよばれる場所があります。右手の石垣にはひときわ大きな石があります。美しい遊女を乗せ、勢いをつけて石を運んだとも伝えられ、遊女石とも呼ばれます。

太鼓門(大手門) 太鼓門(大手門)
南走長屋は、表門(鉄門)から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。現在ある天守閣から表門をつなぐ走長屋とともに表門を守り、帯郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと考えられています。
武者走 武者走
太鼓門の奥には、太鼓門の上に兵を昇降させるための石垣(武者走)が残されています。
鐘撞堂 鐘撞堂
戊辰戦争の際、籠城戦になっても正確な時を告げ続けた鐘です。城外にいた味方兵はその音で城内の健在を知り、意気を上げたといわれます。時守が撃たれても別の者がこれを鳴らし、開城の時まで止むことがなかったといわれます。今も若松城下には正午、ボランティアガイドの方々の手により鐘の音が響きます。
謙信仮廟所 謙信仮廟所
上杉景勝が会津へ入封した際、上杉謙信の遺骨も鶴ヶ城内に運ばれ、鉄門そばの一角が仮の廟所としてあてられたと伝えられます。
鉄門(くろがねもん) 鉄門(くろがねもん)
鉄門は帯郭から本丸へ通じる表門で、柱や扉は全て鉄で覆われ、この名がつきました。加藤明成の大改修によって造られた門で、左右の石垣は化粧たがねが入れられ、切込ハギと呼ばれる工法で見事に築かれております。お城の正面玄関にふさわしい姿です。
二の丸
廊下橋 廊下橋
廊下橋は本丸から二の丸へ通じる朱塗りの橋で、加藤明成の大改修まではここが大手口でした。葦名時代には屋根のついた廊下造りだったので、廊下橋と呼ばれました。

扇の勾配 扇の勾配
南走長屋は、表門(鉄門)から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。現在ある天守閣から表門をつなぐ走長屋とともに表門を守り、帯郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと考えられています。

 
今は県立博物館が建っていますが、むかしはサムライたちが闘うための訓練をする広場でした。


鶴ヶ城内の石碑・銅像・関連人物一覧

秋月 悌次郎
藩主容保が京都守護職となると公用局員として活躍。戊辰戦争後は敗戦処理の采配をふるいました。その後熊本第5高等学校の教師となり、立派な人格は同校教師の小泉八雲に「神様のような人だ」と言わせました。
萱野 権兵衛
萱野権兵衛は戊辰戦争時、会津藩国家老で降伏後明け渡しや藩主助命嘆願に尽力しましたが戦争責任を負って切腹しました。この殉節碑は昭和9年に有志の手によって建立されました。
西郷 頼母
藩主容保が京都守護職を拝命する時、最後まで反対。戊辰戦争では屋敷内の婦女子21名が自刃しました。戊辰戦争後は日光東照宮神職を経て晩年会津にもどりました。
秩父宮勢津子妃殿下
妃殿下は、駐米大使、駐英大使、宮内大臣、参議院議長などの要職を歴任された松平恒雄様、信子様ご夫妻の長女として明治42年ご誕生、昭和3年、秩父宮雍仁親王殿下とご結婚なされました。このとき、会津は歓喜の渦に包まれた、と伝えられています。
土井 晩翠
詩人。仙台出身。教師時代に荒廃した鶴ヶ城跡を訪れ「荒城の月」作詞のきっかけを得たといわれます。直筆の碑が残されています。
西郷 四郎
講道館へ入門、山嵐の大技をあみだし、小説「姿三四郎」のモデルとなった柔道家です。元会津藩家老西郷頼母の養子となりましたが実子との説もあります。
佐川 官兵衛
文武両道に秀で「鬼官兵衛」と恐れられました。戊辰戦争の北越戦では会津軍を指揮しました。戦後、西南戦争に警視隊隊長として参戦。阿蘇山中の黒川村で戦死しました。
佐川 官兵衛
会津松平家から若松城(鶴ヶ城)の公園管理を任され、友人とともに約1千本のソメイヨシノを若松城(鶴ヶ城)一帯に植樹し、若松城(鶴ヶ城)が桜の名所となる基礎を築きました。
ボランティアガイド レンタサイクル 周遊バスハイカラサン 会津若松観光物産協会


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