財団法人 会津若松観光公社    

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Q&A よくある質問
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国指定名勝松平氏庭園


 Q.鶴ヶ城と若松城はおなじですか?
 
おなじです。

 そして、どちらも間違いではありません。ふつう、お城の名前には、そのお城がある地名をつけて呼びます。
 会津の場合は昭和9年に、国の史跡(しせき)として指定された時「若松城跡」で指定されたため、公的機関(こうてききかん)を中心に「若松城」と呼ぶことが多いようです。
 では、なぜ、鶴ヶ城とよぶのでしょうか?
 それは、今から約400年前に会津のお殿様だった蒲生氏郷公(がもううじさとこう)が会津のお城を「鶴ヶ城(つるがじょう)」と名づけたからです。
 なぜ、鶴ヶ城となづけたのかは、いろいろな説がありますが、それからずっと「鶴ヶ城」と呼ばれ親しまれています。
 このように、『鶴ヶ城』ひとつをとっても、いろいろな呼び方があります。

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 Q.お城の中にお殿様は、すんでいたんですか?
 
住んでいませんでした

 ふつう、お殿様は、お城のすぐ下にある、屋敷(やしき)にすんでいました。お城に入るときは、戦(いくさ)になった時などです。
本丸のなかは今、何もありませんが明治7年に取り壊されるまで、図のようにお殿様やお姫様が住む大きな屋敷がありました。
お屋敷には「大広間(おおひろま)」「大書院(だいしょいん)」「御寝所(ごしんしょ)」などと よばれる部屋がいっぱい ありました。
また、このほか、「御文庫」「御三階」と呼ばれる建物や復元移築(いちくふくげん)されている、お茶室(麟閣)などもありました。

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 Q.お城には 桜の木が何本(なんぼん)ありますか?
 
約1000本あります。

 おおくは「ソメイヨシノ」ですが、八重桜(やえざくら)や長野県高遠町(ながのけんたかとうまち)から寄贈(きぞう)された、「コヒガンザクラ」なども きれいな花を咲かせてくれます。
みごろは毎年4月中旬から2週間程度です。
また、鶴ヶ城のさくらは「全国さくらの名所百選(めいしょひゃくせん)の地」にも指定されています。

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 Q.鶴ヶ城の広さは どのくらいありますか?
 
約8万7千坪あります

東京ドームの約6倍の広さです。
 ただし これは、現在、史跡に指定されている 広さですので、江戸時代はもっと広かったと思われます。
※上の図の三の丸は現在では、そのほとんどが県立博物館となっております。

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 Q.鶴ヶ城の大きさはどのくらいありますか?
 

●石垣から天守閣の一番高いところまで、36.5メートルです
●天主台(石垣だけ)の高さは11メートルです
●天守閣だけの高さは25.15メートルです

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 Q.今のお城はいつ建てられたの?
 

昭和40年完成の『鶴ヶ城天守閣』
復元時の様子。
昭和40年9月に復元されました

江戸時代からあった天守閣は、幕末の戊辰戦争で傷んでしまったので、明治7年に取り壊されてしまいました。
現在のお城は昭和40年9月に復元されたものです。

鶴ヶ城は葦名直盛が1384年に建てた東黒川館がはじまりと言われています。 その後、何度か建て直され、江戸時代の1693年に加藤明成が建てた時に、今の形になりました。

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 Q.今のお城は 何でできていますか?
 
鉄筋コンクリートでできています。

鉄筋コンクリートでできており、天守閣全体を4本の柱だけで支えています。このため、天守閣の土台である石垣には、おもさがかかっていません。

もちろん、江戸時代の天守閣は木造でした。

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 Q.会津藩は何万石だったんですか?
 
一番多い時は120万石

 一番多いときは、上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津のお殿様だったころで、このときは、とおく佐渡島(さどがしま)のほうまで、会津の領地(りょうち)でした。しかし、お殿様が かわるたびに、会津の領地もかわり、江戸時代がおわるころは、23万石でした。

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 Q.白虎隊の人たちは 何歳だったんですか?
 
16歳~17歳でした

16歳から17歳といっても、当時は「かぞえとし」だったため、今でいえば、15歳から16歳ということになります。(中学校3年生~高校1年生)
この少年たちが故郷である「会津」をまもるため若い命をちらしていったのです。
参考 >>白虎隊のお話

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 Q.新撰組は会津にきたんですか?
 
きました

特に、副隊長の土方歳三は七日町の清水屋という旅館にとまり、傷を癒していますし、3番隊長の斎藤一も市内の如来堂という所で戦っています。
また、市内の天寧寺(てんねいじ)には、隊長の近藤勇の墓もあります。

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 Q.麟閣はなんとよみますか
 
りんかく と読みます。

麟閣は、本丸内にある、お茶室です。

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 Q.『御薬園』は、なんと読みますか
 
おやくえん と読みます。

御薬園は会津藩主のお庭・別荘です 
むかし、江戸時代に薬用人参を試植し、ひろく奨励したことから、このように薬の字がはいった、名前でよばれるよになりました。

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