天明の飢饉(1782~1783)で会津の農業も大きな打撃を受けました。藩では疲れきった農村の振興にのりだし農民に力をつけなければならないことを悟り、産業の奨励によって藩の財政の立て直しをはかるようになりました。
養蚕、漆、ろう、紅花などの栽培を奨励して、価値の高い商品作物を生産することに力をいれました。特に朝鮮人参は高価な商品作物であることから藩直営の事業とするために人参奉行所を設け、人参の生産販売を専売制にしました。そして、藩の指導奨励と農民の根強い努力で、会津の朝鮮人参(会津和人参ともいわれる)は天保3年(1832)幕府の許可によって日本ではじめて輸出人参として清国(中華人民共和国)のむけ長崎の港を出港したのです。
人参奉行による運営の要点は、次の3点にありました。
- 村名主によって身元が確認された農民一人について1畝(1アール)あたり600粒の種子を貸し付ける。但し、一人3畝を限度とする。
- 買い上げ代金の前貸しをし、集荷、精製を一貫して引き受ける。
- 販売経路を確立し良品は海外へ輸出する。
人参栽培農民は、価格も安定し来年の種子の貸し付けの保証もあり、海外市場も開かれているので大いに生産に励みました。 |