佐原・葦名時代
鎌倉時代〜室町時代
佐原一族は、源頼朝が東北を支配下に置いた後、会津北部を領地として与えられた鎌倉御家人・佐原義連の一族です。葦名氏は佐原一族の一員でした。葦名は佐原一族の中で 徐々に勢力を強め、会津守護職と言われる支配構造を確立しました。その葦名氏が建てた東黒川館が鶴ヶ城の前身と言われています。
- 1189(文治5年)
- 源頼朝が奥州 の藤原氏を滅ぼすと、佐原義連は会津盆地一帯を、山内通基は大沼郡と伊北郷を、長沼宗政は会津郡の南山を、河原田盛光は伊南郷を与えられました。
- 1294(永仁2年)
- 6代葦名盛宗によって黒川に諏方神社が建てられました。
- 1335(建武2年)
- 6代葦名盛員は北条時行の乱に味方して足利尊氏と戦い、子の高盛とともに討死にしたので、高盛の弟直盛が七代を継ぎました。
- 1543(天文12年)
- 16代葦名盛氏が山内、河原田氏降し、約100年の間各地で争った会津地方もここで戦乱の終止符を打ち、盛氏に従うようになりました。
略年表
伊達政宗時代
安土桃山時代
葦名末期の内紛に乗じた独眼竜政宗の会津支配
内紛のあった葦名氏を、奥州の覇権を狙っていた米沢の伊達政宗が破り、会津は伊達の支配下に入りました。しかし時の権力者・豊臣秀吉の命令で、わずか一年余の支配で伊達政宗は会津の地を手放す事になります。
- 1589(天正17年)
- 葦名義弘と伊達政宗は摺上原で対決しました。敗れた義弘は黒川城を去って常陸佐竹氏に帰りました。文治5年以来約四百年の長い間会津に栄えた名族葦名氏も終止符を打つことになりました。
- 1590(永仁2年)
- 豊臣秀吉の命令に従い、政宗は会津から去りました。
略年表
蒲生氏郷時代
安土桃山時代
会津若松の基礎を作った、文武両道に優れた名将
蒲生氏郷は、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘と結婚しています。現在の会津若松の基礎は彼によって築かれました。町の名前を黒川を若松と改めたのも蒲生氏郷です。文武両道に優れた人材でしたが、わずか40才でこの世を去りました。
- 1590(天正18年)
- 豊臣秀吉の命により伊達政宗が去り、会津、仙道十一郡が蒲生氏郷に与えられました。
- 1592(文禄元年)
- 氏郷は秀吉にしたがって九州名護屋に向かい、朝鮮の役へ加わりました。その間、6月から黒川城の改築を中心に城下町の建設がはじまりました。
- 1593(文禄2年)
- 6月には天守閣をもつ城郭の改築とともに、城下町の建設がほぼ完成し、はじめて家臣団の住む郭内ができ、庶民の住む郭外とは土居と外堀で分け、黒川を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名しました。
- 1595(文禄4年)
- 2月7日、氏郷が亡くなりました。享年40歳です。京都の大徳寺昌林院に葬られ、遺髪が若松の興徳寺に墓碑が建てられました。氏郷のあとは、子の秀行が継ぎました。
- 1598(慶長3年)
- 秀行が宇都宮に18万石で転封。
略年表
上杉景勝時代
安土桃山時代
徳川・毛利に次ぐ120万石で封入
上杉景勝は、有名な上杉謙信の養子にあたり、上杉の家督を継いだ人物です。豊臣秀吉の五大老の一人でしたが、秀吉亡き後、徳川家康と対立。後に徳川軍門に下り、会津120万石から出羽米沢30万石へと減封されました。
- 1598(慶長3年)
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宇都宮に18万石で転封された蒲生秀行に代わって、上杉景勝が3月に越後から入りました。景勝は会津、仙道、長井(米沢)、庄内、佐渡など120万石の地を与えられました。
この年に秀吉が亡くなると、勢力を強めた徳川家康と対立を深めていきます。 - 1600(慶長5年)
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【2月】
反徳川として景勝は石田三成と結んで各地の城を修築したばかりでなく、神指ヶ原に新たな城の造築をはじめました。
【6月】
家康は景勝を討つため会津出征に出発。しかし小山に到着したとき石田三成の挙兵を聞いて反転西上します。これが関ヶ原戦いにつながります。
【9月】
家康は関ヶ原の戦いに大勝。 - 1601(慶長6年)
- 9月に上杉景勝は米沢に30万石で転封
略年表