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城の改修と領内の整備。現在の鶴ヶ城が誕生。
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加藤嘉明は若くして豊臣秀吉に仕え、勇名をはせた典型的な戦国武将です。秀吉の死後徳川についたため、後に伊予松山(愛媛)に二十万石を与えられました。
そして会津を治めていた蒲生氏が途絶えたことから、四十万石で伊予松山(愛媛)から会津に転封。その後、城の改修と領内の整備を進めます。
彼の行った城の改修で鶴ヶ城は現在の姿になりました。
しかし、その子・加藤明成が重臣と対立したのをきっかけに、会津四十万石は幕府に召し上げられることになります。
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| 年代(年号) |
事 柄
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1627
(寛永4年) |
1月に蒲生忠郷が亡くなりました。子がなかったので、弟忠知が四国の伊予松山に転じ、五月に松山から加藤嘉明が会津四郡、安積、岩瀬二郡四十万石で若松に転封してきました。 |
1631
(寛永8年) |
九月に加藤嘉明が亡くなり、嫡子明成があとを継ぎました。 |
1632
(寛永9年) |
明成はこの年から、滝沢峠の修理をはじめ、道に石を敷き八万人の人夫を使い寛永十一年に完成させました。 |
1639
(寛永16年) |
天守閣を五層にし、西出丸、北出丸を増築しました。(現在の鶴ヶ城の姿が整う)
重臣・堀主水兄弟が明成に無断で会津を退いた事件がおきました。 |
1643
(寛永20年) |
堀主水兄弟の件が元で五月に明成は四十万石の封士を召し上げられました。 |
■戦国の猛者・加藤嘉明
蒲生氏が松山に去った後、代わって寛永4年(1627)5月5日、端午の節句に加藤嘉明が40万石で鶴ヶ城へ入城しました。
嘉明は若くして豊臣秀吉に仕え、播磨国三木城(兵庫県)攻めなどの歴戦を重ね、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦で七本槍の勇名をはせた典型的な戦国武将です。秀吉のもとで名をあげましたが、その死後は石田三成と対立し、関ヶ原の戦いや大坂の役では徳川方につき、その功績によって伊予松山(愛媛県)で12万石を与えられていました。
■領内の整備
嘉明は会津に入ると検地を実施し、村々の石高を調べて所領を確定する一方、これまで背あぶり峠を通っていた白河への街道を滝沢峠の新道に改めるなど、領内の整備に努めました。また、火に通じる名称を嫌って、城下の日野町を甲賀町、背あぶり峠を冬坂峠などに改称させました。こうして嘉明は領内の経営に尽力しましたが、寛永8年(1631)69歳で亡くなりました。
■二代目・明成と城の改修
嘉明の後を継いだのは嗣子の明成で、寛永16年(1639)に鶴ヶ城に大改修に着手しました。今日の鶴ヶ城の姿が整えられたのは、この時です。
まず、北と西にあった馬出が拡張されて北出丸と西出丸となり、本丸への進入が一層困難となりました。ついで、これまで東に向いていた(廊下橋の方向)大手口も、滝沢峠の開通に伴って北へ改め、甲賀町通りから北出丸、椿坂、太鼓門、帯郭(おびくるわ)を経て本丸へいたる順路が確保されました。
さらに二ノ丸、北出丸、西出丸から本丸への出口に新しく枡形の石垣が設けられ、本丸への順路は二重に防がれることになりました。そして、改修の総決算として慶長16年(1611)の大地震で傾いたままになっていた天守閣を改築し、その外壁に惣塗籠の手法を導入して、白亜五層の天守閣が誕生したのです。
■領地召し上げ
こうした城の大改修は幕府の好むものではなく、寛永20年(1643)に堀主水事件(重臣との対立)を理由として会津40万石は幕府に召し上げられることになりました。 |
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